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歴史

春日大社の国宝太刀の金具に純度の高い金

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平安時代の傑作として国宝に指定されている奈良市の春日大社に伝わる太刀が、ほとんどの金具に純度の高い金を使った極めて珍しいものであることが科学的な調査でわかり、調査に当たったグループは、当時の権力者である藤原氏が特別に作らせたと考えられるとしています。


「金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでんけぬきがたたち)」は、12世紀に春日大社に奉納された長さおよそ1メートルの刀で、さやに金や螺鈿(らでん)で猫がすずめを追う様子が精巧に描かれるなど平安時代を代表する傑作として国宝に指定されています。

今回、春日大社で20年に一度行われる「式年造替」に合わせて、奈良文化財研究所の高妻洋成室長らのグループが材質を詳しく調べました。その結果、つばやつかなどの金具のほとんどが純度の高い金で作られていることがわかったということです。

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産経新聞West

グループによりますと、これだけ純度の高い金の金具で飾られた太刀は極めて珍しいということで、当時の権力者である藤原氏が特別に作らせ、春日大社に奉納したものと考えられるということです。

春日大社の花山院弘匡宮司は、「ご神宝の象徴とも言える国宝の太刀が、立派なものだとわかり、大変、喜ばしいことです。この機会により多くの人に見ていただきたい」と話していました。
この太刀は、来月1日、リニューアルオープンする春日大社の国宝殿で来月31日まで公開されます。

9月26日 19時17分

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NHKNEWS WEB
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歴史

「シーボルトの金魚」確認 オランダ博物館に標本現存


 江戸時代後期の1820年代、長崎・出島のオランダ商館に滞在したドイツ人医師シーボルトが入手し、オランダに送られた金魚のアルコール漬け標本が、同国ライデンの自然史博物館に現存していることが17日、分かった。近畿大の細谷和海教授(魚類学)らの研究チームが確認した。

 研究チームによると、標本は計35匹。日本最古の金魚標本とみられる。うろこやひれの形に加え、魚独特の光沢も十分に保たれている。金魚は当時、日本では庶民が飼っていたが、欧州では珍しかったという。

 自然史博物館にシーボルトの金魚標本が収蔵されたことは文献で知られていた。

(共同)


シーボルトの金魚
 オランダの自然史博物館に現存する、シーボルトが入手した金魚「ランチュウ」のアルコール漬け標本(研究チーム提供)

2016年9月17日 08時41分

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47News



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フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト詳細はCLICK

ドイツ出身の医師、博物学者であったシーボルトは来日中の間に診療の傍ら 日本各地を探訪様々な分野の標本を収集(弟子への依頼も含む)し、派遣本国であるオランダに送っていたといわれる。

歴史

あの「聖徳太子」が教科書から姿を消すワケ ここまでわかった!「日本史」の最新常識

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© 東洋経済オンライン だれもが知っている「聖徳太子」、そろそろ学校教科書から消えるそうです。その真相とは?(写真:AISA/アフロ

 かつて「伝説の学習参考書」と呼ばれた名著をご存じだろうか。1973年に初版が発行され、多くの受験生のバイブルとして版を重ね続けてきた『大学への日本史』である。

 作家の佐藤優氏も、外交官時代、「座右の書」として肌身離さず持ち歩き、何度も読み返してきた。その学習参考書が今回、装いも新たに『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』、『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わった。

 特長は、リニューアル復刊にあたって、監修者が全編チェックして「古い学説」は改訂し、最新の研究成果によって以前の内容にはなかった「新たな歴史の常識」も数多く盛り込まれ、「いま使える内容」になっていること。

 本連載では、同書の監修を担当した東邦大学付属東邦中高等学校の山岸良二氏が、そんな「最新の日本史」を紹介していく。

 誰もがその名を知る、日本古代史最大級の偉人「聖徳太子」。

 かつて旧1万円札の代名詞でもあり、「一度に10人の話を同時に聞き分ける」など、その生涯における超人的エピソードは、1400年の時を経てなお今日に語り継がれています。

 もちろん、「憲法十七条」や「冠位十二階」「遣隋使の派遣」など、彼の成し遂げた偉業の数々は誰もが教科書で習った覚えがあるはずです。

 ところが近年、「聖徳太子が、じつは存在しなかった」という、にわかに信じられない学説が唱えられ、従来の教科書表記にも影響を及ぼすほどに拡大しています。教科書を見ても、いままでは「聖徳太子」と書かれていたのが、最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」(山川出版社の『詳説日本史B』)とカッコつきの表記に変わってきています。

 いったい「聖徳太子」はいたのか、いなかったのか? よく聞かれる10の質問に答える形で解説しましょう。

 Q1. ズバリお聞きします。聖徳太子はいたのですか?

 いました。でも、その前にひとつ確認しておきましょう。「聖徳太子」と私たちが呼んでいるこの名前は、彼の本名ではありません。これは彼の功績を称える人々が後世になり彼に贈った名前で、贈られた人物の名は「厩戸王(うまやとおう)」。この「厩戸王」は実在の人物です。よって、「いた」となります。

 Q2. 「聖徳太子はいなかった」はウソだったのですね。

 ところが、そうとも言えない事情があります。「聖徳太子はいなかった?」は、ここからが本題です。

 たしかに「厩戸王」はいましたが、厩戸王が今日に伝わる「聖徳太子」そのものの活躍を実際にしたのかとなると、話は変わってきます。聖徳太子が行ったとされる数々の偉業と彼との関係をあらためて調べていくと、「意外な結果」へとたどりつくのです。

 Q3. まず「厩戸王」について簡単にご説明ください。

 「厩戸王(うまやとおう、574~622)」は飛鳥時代の政治家です。本名は「厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)」。用明天皇の皇子として誕生し、母は蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。19歳で推古天皇の摂政となり、「憲法十七条の制定」など数々の偉業を成し遂げます。この功績により、後世「聖徳太子」として人々に称えられ、その名がいまに定着しています。

 Q4. 聖徳太子が否定されるきっかけは何だったのですか?

 彼の行ったとされる実績は「冠位十二階の制定」「憲法十七条の制定」「国史編纂」「遣隋使の派遣」「仏教興隆(三経義疏、法隆寺・四天王寺の建立)」など、こうして書き連ねるだけで膨大です。

 冷静に考えて、「これらをひとりの人物がすべてやったとは考えられない」というわけです。

 Q5. 聖徳太子と厩戸王との相違点は何ですか?

 聖徳太子は上記の偉業をすべて行った、それゆえの「“聖徳”太子」ですから、人物像も明快です。それに対し、「厩戸王」については、当時の史料をあらためて検証する限り、「憲法十七条」も「冠位十二階」も、彼が主体として確実に関与していたという証拠がないのです。

 もちろん、だからといって、彼が政治の中枢にいたことはたしかですから、まったく無関与であったとも言えません。現時点では「グレー」なのです。

 Q6. 憲法十七条はあったのですか?

 ありました。ただ、『日本書紀』にある604年という成立年に疑問が生じているようです。当時の天皇家の持つ権力(=勢力)は、蘇我氏など大豪族とあまり差がなく拮抗しており、この状態で条文にある「天皇中心の国家」をうたいあげるにはまだ時期が尚早だったとの見方と、条文にある「国司」名が未だ使われていなかったのではという疑問点から、「実際の制定はもっと後の時代だった」という主張もあります。

 Q7. 冠位十二階はあったのですか?

 ありました。ただ、中国、朝鮮半島でも同じような制度はあったので、それを導入したと考えるのが自然でしょう。また、制定の理由は「新しい人材登用が目的」というより、「当時遣隋使の派遣などで積極的に国際化を目指した日本が、先進国としての対外的イメージをつくるため」という意味合いが強いようです。なお、制定に際し、ここでも「厩戸王」の主体的関与の証拠はありません。

 Q8. 遣隋使派遣はあったのですか?

 ありました。でも小野妹子で有名な607年が最初ではありません。日本側の記録にはありませんが、中国側にはっきりと600年に遣隋使が訪れたときの詳細な記録が残されています。当時の遣隋使は、後の遣唐使ほどの重要性を持ってなかったとも考えられます。

 遣隋使に関しても、厩戸王の主体的関与の証拠は見つかっていません。

 Q9. 法隆寺は厩戸王が建てたのですか?

 わかりません。現在の法隆寺は再建(670年に一度焼失)で、寺院に伝わる仏像も彼より後の時代のようですから無関係。焼失前のオリジナルは、現法隆寺の敷地に重なる形で残る「若草伽藍(わかくさがらん)」と呼ばれる寺院遺構とされていますが、なにぶん、こちらも遺構ですから関与の証拠を見出すのは難しいでしょう。近年の考古学的成果からは、部材類の年代は「再建説」を補強しています。

 Q10. では、なぜ「聖徳太子」が作り上げられたのですか?

 厩戸王が死去して50年後、凄惨な皇位継承権争い(壬申の乱)が起きます。天皇の権威は失墜し、勝者となった天武天皇(631?~686)は「天皇中心の中央集権律令国家づくり」をすすめていきます。

 そのとき天武天皇は「厩戸王」というひとりの人物に着目します。彼と同時代に行われた数々の施策を誇大評価し、これらの偉業すべての部分で関与したとする「聖徳太子」をつくり上げたのです。ライバルである有力豪族に対し、神代から続く自らの血筋の優秀性と日本国の統治者であるという正統性を再認識させようとしたのでは、と考えられています。

 こうしたことを背景にして戦前につくり上げられた「聖徳太子」像は、いま大きく揺らいでいるのです。

 ここまでの話を整理してみましょう。

 ★ 聖徳太子の称号は「憲法十七条」をはじめ、数々の功績によるもの。

 ★ ところが、最近の研究から、推古王朝は彼一人でなく天皇、蘇我氏、厩戸王3者の共同体制による運営とされ、


 ① 冠位十二階などは「多くの人物」の手による合作


 ② 憲法十七条は彼よりも「後の時代」に完成した


 ③ 遣隋使は小野妹子より「以前から」派遣されていた


 など、彼自身の実績とは直接関係ないとする可能性も指摘され、徐々に疑問が生じています。


 ★ 少なくともこの時代に、彼が天皇の摂政として存在したのは確かですが、「聖徳太子」の称号に値する“すべてをひとりで成し遂げた”人物ではなかった、つまりは「“聖徳太子”はいなかった」とする見方が現実味を帯びてきました。
 後に「伝説の学習参考書」と呼ばれた『大学への日本史』の初版は1973年。刊行後の40年の間に、さまざまな歴史的事実が明らかになりました。歴史は絶えず「進化」を続けています。

 今回のリニューアル出版にあたっては、まだ上記の議論に結論が出ていないことから、従来の内容に従い、これらは彼の成した功績として記述していますが、人物名は「聖徳太子」とせず、本来の名である「厩戸王(聖徳太子)」としました。

 (旧)聖徳太子 → (新)厩戸王(聖徳太子)
 現在使われている高校の日本史教科書(『詳説日本史B』山川出版社)でも、「厩戸王(聖徳太子)」と表記されていますが、次の教科書検定で改訂されるときには、「聖徳太子」の語は本文からは削除されると思われます(脚注では言及される見込みです)。

 今回紹介した歴史の「進化」の一例も、現時点での「最新版」ですが、決して「最終版」ではありません。研究・発見が続く限り、歴史教科書はこれからも内容が書き換えられていくことでしょう。

Q.ありがとうございました。最後に、「10人の話を~」は本当ですか?

 10人がいっせいに言葉を浴びせかけたわけではなく、「10人の話を1人ずつ順に聞いたうえで、それぞれに対し明快な回答を行った」というのがどうやら実態のようです。いずれにせよ、こうした伝説が後世、より彼(聖徳太子)のイメージを肥大させることとなった一因でしょう。

 一方で、この「耳が良い(=賢い)」は、彼の名前にある称号「豊聡耳(とよとみみ)」に由来するもので、こうした表現がある以上、実際の「厩戸王」本人も、非常に優秀な人物だったことはまず間違いありません。

 歴史は知れば知るほど、楽しいものです。数学や英語と違って、「知識ゼロからでもすぐに学び直しができる」のが、歴史の最大の特徴です。

 歴史をすっかり忘れてしまったビジネスマンの方も、これを機会に、ぜひ楽しみながら、学び直してみてください。

2016.05.26 山岸 良二

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歴史

「信長の時代のように甘くない」 秀吉の書状33通発見

 羽柴(豊臣)秀吉(1537~98)が、家臣の武将、脇坂安治(わきざかやすはる、1554~1626)に宛てた書状33通が見つかった。兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館と東京大が21日発表した。「天下人」の書状がまとまって確認されるのは異例。天下統一や朝鮮出兵の過程での細かな指示ぶりや叱責(しっせき)を飛ばしていた様子がうかがえるという。

特集:真田太平記

 書状は秀吉の朱印を押した朱印状で、縦29~47センチ、横45~67センチ。龍野藩脇坂家の初代、安治を祭る龍野神社(たつの市)が所蔵していたが、2012年に保管先の民家の火災で一部が焦げ、消火で水損もした。市が2年後に一括購入し、東京大史料編纂(へんさん)所が修復・調査。秀吉の祐筆(ゆうひつ、書記)の筆跡や朱印から本物と断定した。

 書状は織田信長が本能寺の変(1582年)で倒れた後の約10年間分で、信長の次男・信雄(のぶかつ)や徳川家康と覇権を争った小牧・長久手(ながくて)の戦い(84年)や越中(今の富山県)の佐々成政(さっさなりまさ)攻め(85年)、九州の島津攻め(86~87年)、朝鮮出兵時(92~94年)などに関する内容。

 85年の書状は、2カ月で13通に及んだ。正親町(おおぎまち)天皇が譲位後に住んだ京都の仙洞(せんとう)御所造営に使う材木の手配を伊賀(現在の三重県北西部)で行うよう命じた安治に対し、越中出陣を望んだことや材木輸送の遅滞を再三叱責。伊賀の統治についても細かく指示し、統治がうまくいかなければ蒲生氏郷(がもううじさと)ら他の武将を派遣すると告げた。追放した近臣の一人をかくまわないよう指示し、「信長の時代のようには甘くない」とすごみも利かせていた。

 朝鮮出兵でも、「小西(行長〈ゆきなが〉)が釜山の海城を落としたと聞いたが、皆で攻めるよう申し渡したはず。早く合流して戦え」「しっかりと高麗国を治めよ」「普請などしっかり行え」と再三指示していた。

 「3月に渡海するから待っていろ」「来春(中国の)明に渡る予定である」とも記し、秀吉本人が渡海予定だったことも改めてわかった。

 編纂所の村井祐樹助教(日本中世史)は「しつこいぐらいに細かい秀吉の性格がわかる。子飼いの武将だった安治との親密さもうかがえる」と話す。豊臣秀吉文書集(名古屋市博物館編)の編集委員会委員の藤田達生・三重大教授(日本史学)は「伊賀は当時、自治の伝統が強かった。信頼の厚い安治を派遣し、指示を再三与えたことから相当に気をつかっていたことがわかる」と指摘する。

 書状は2月26日~4月10日、資料館で一般公開される。原則月曜休館。一部の書状は、編纂所が昨夏に刊行した「大日本史料 第十一編之二十七」に所収されている。(藤井匠)

     ◇

 〈脇坂安治〉 現在の滋賀県長浜市出身で秀吉に仕えた。秀吉と柴田勝家が戦った賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで戦功を挙げ、福島正則、加藤清正らとともに「賤ケ岳の七本槍(やり)」とたたえられた。朝鮮出兵では水軍として出動。秀吉の死後、関ケ原の戦いでは徳川方の東軍に通じ、伊予大洲5万3500石に加増された。脇坂家は3代安政から、龍野藩主を明治維新まで務めた。

2016年1月21日20時16分
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朝日新聞

歴史

異聞・本能寺の変(下) 光秀を孤立無援にした「信長」の人望…信賞必罰・強権の裏で民衆・家臣に心砕いていた

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羽柴秀吉の本陣





 天正10(1582)年6月2日、京都・本能寺で織田信長を討った明智光秀だったが、その後、あてにしていた有力武将の援軍もなく、天王山のふもとで毛利軍と和解後、あっという間に引き返してきた羽柴秀吉と戦う。一見やることなすことが強権的で、“戦国時代のパワハラ王”ともいえる信長だっただけに反対派も相当多かったはず。それなのに、なぜ光秀は無視されてしまったのか。やはり光秀に人望がなかったのか。それとも…。

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明智光秀の本陣
 
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羽柴秀吉の中国大返し

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小泉川を挟んで対陣する羽柴軍(右)と明智軍(左)

支持率が高い信長

 実力を第一とし、はっきりした信賞必罰をとる信長は、力がある家臣は足軽でも引き揚げるが、失敗するとたまに暴力に訴えることもあった。このため、家臣との確執も絶えず、松永久秀や荒木村重ら数多くの裏切りにあっている。

 それでも力で押さえ込むと一族をも皆殺しにしてしまうなど、恐怖を背景に従える心理的効果は絶大だった。一方、占領したばかりの地でむやみな課税を禁止する命を出して悪い印象を払拭するなど、民衆の支持率には相当に気を配っていたという。

 また仏教や朝廷など旧態依然とした勢力を徹底的に嫌い、新しいものを好んだことから、自分あるいは家臣が治める城下町にいた特権を持つ商工業者組合を解散させ、新興業者に自由な商売を奨励する新しい経済政策をとったことで人気を決定的にした。

 この結果、家臣からは神や仏以上に畏れられ、民衆からはこれまでの閉塞感漂う政治、経済を一掃した革新政治家のイメージを植え付けるのに成功。“信長内閣”の支持率は相当に高かったともいわれている。

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天王山中腹から古戦場を望む



 こうなると信長を討った光秀は動機はどうあれ、家臣から神仏以上にあがめられていた人を殺害した謀反人で、国民にすれば良き宰相を追い落とした極悪人である。

 光秀に加担した場合も、また謀反人、極悪人となることが十分に予想されたことから、加勢を見合わせたという雰囲気が強いようにも思える。

 

元親は…

 信長の四国侵攻直前、光秀の重臣に信長への恭順の意を示した書状を送っていた長宗我部元親も、どこまで光秀を助けるつもりだったのか。

 元親は「一両具足」と呼ばれる、平時は農作業をしながら、いざというときには作業を途中で放って駆けつける軍事制度を確立している。武士だけでは数が足りず、純粋な農民は動員に時間がかかるという、戦国大名が抱える問題を一気に解決した制度といえる。

 だが、信長や秀吉が確立したとされる、世の中の“あふれ者”を金銭で雇って兵に仕立てる常備軍制度は組織力で一領具足に劣るものの、動員速度ははるかに速い。

 このため、豊富な財力を武器に敵より圧倒的な兵力を用意すれば組織力も高まり、実力次第では、アルバイトから社員、幹部などといった出世も夢ではないだけに、必至で働くことになる。

 本能寺より1カ月前の5月に信長は四国侵攻を決めたとき、このまますぐに攻められては、いくら一領具足の動員力が優れているとはいえ、間に合わないとでも思ったのではないだろうか。

 信長との戦も辞さなかった元親が突然に信長への恭順を表した書状を光秀方へ送ったのも、時間稼ぎ的な意味合いもあったとも考えられる。

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天王山の戦いに敗れた明智光秀が逃げたとされる勝竜寺北門跡


 その証拠に、本能寺の4カ月後の10月に行われた讃岐・十河(そごう)城攻略戦で元親は3万6千の兵を動員している。しかも、翌年の賤ヶ岳の戦いで秀吉と争う柴田勝家と手を結んでいるところをみると、元親の気力も兵力もいっこうに衰えていない。

 四国攻めのため、四国の対岸の摂津と和泉にいた織田信孝軍は本能寺の変で撤退し、信長の力を背に元親と戦っていた三好勢も逃げる。これで助かった元親は「もう光秀の役割は終わった」と冷徹な目で見ていたのかもしれない。

 

孤独の死

 本能寺の変の翌日の夜に信長の死を知った秀吉は備中高松城を介してにらみ合っていた毛利軍と講和を結ぶと6日に出発し、姫路城に到着したのが7日で、9日朝まで休養のために滞在したという。

 秀吉が京都へ引き返していることを光秀が知ったのは8日。近江をほぼ平定して、安土城で朝廷の勅使らと祝賀会を催した後、居城・坂本城に戻ったときともいわれている。

 あまりの秀吉軍の動きの早さに慌てた光秀は準備もそこそこに、とりあえずありったけの兵で天王山のふもとに戦場を設定して待つことにした。

 ここは桂川、宇治川、木津川が合流して淀川へと連なる狭隘(きょうあい)の地。秀吉軍の4万に対して1万6千の明智軍。数の上ではすでに勝負にならないため、光秀は狭い場所で各個撃破する目算だった。

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本能寺の変の直後に焼失したとみられる安土城の焼け跡(平成11年3月撮影)

 12日、現地に到着した秀吉軍は小泉川(現・円明寺川)を境に光秀とにらみ合うが、やはり多勢に無勢だった。13日、淀川から側面をつかれた光秀軍は総崩れとなる。

 光秀は戦場近くの勝竜寺城まで退却して態勢を整えようとしたが、城が手狭ですべて収容できないことから、ほとんどの兵は逃げてしまう。

 この散々な結果に、光秀は城の北門からひそかに脱出すると、数人の家臣ともに近江・坂本を目指すも、途中の京・小栗栖の竹やぶで土民に竹やりに刺され命を落とす。

 裏切り、裏切られてが当たり前の戦国の世にふさわしい光秀の死だった。 <完>

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大手道の急斜面に積まれた長い石段=滋賀県近江八幡市安土町

(園田和洋)

2014.7.27 07:00

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